新型コロナウイルスが蔓延した時期より、剣道の試合審判法に暫定的なルールが取り決められた。まずは、ここの趣旨をおさえておきたい。
全日本剣道連盟試合・審判委員会より示された資料によると、大きく2点の趣旨が記されている。
1、主催大会実施にあたっての感染拡大予防ガイドラインの遵守(感染予防)
2、不当な「つば(鍔)競り合い」および意図的な「時間空費」や「防御姿勢による接近する行為」の防止。
つまり、今回の趣旨には感染予防・対策をすることを前提としながら、これを機会に剣道の試合を公明正大なるものにしようとする意図が伺える。
上記の2に関しては、以下の3点が捕捉されている。
①これまでの試合は試合時間の半分以上が「つば(鍔)競り合い」に費やされていると言われている。これを改めて構え合って攻め合う試合展開へ移行する。
②剣道の試合にとって「勝負」の要素は大事であるが、姑息な勝負の仕方を是正し、反則ギリギリの勝負ではなく真っ向から勝負する態度を養う。
③「つば(鍔)競り合い」については試合者の態度や心の問題が大きく影響し、規則だけで裁くのは困難である。試合者と審判員が共通に理解し、一体となって、良い試合の場を醸成する。
では、①から③まで少し考えてみよう。
①鍔競り合いの時間が試合の大半を占めていることは既に平成の初めの頃より指摘をされ、様々な対策が講じられている。例えば、平成7年の大幅なルール改正によって「分かれ」が再度導入されたり、「鍔競り注意」がなくなり即反則としたり(それまでは鍔競り注意2回で反則1回)、平成20年の高体連申し合わせ事項による鍔競り合いの反則に対して厳格化されたりなどしてきた。
ここで考えなければならないのは、いわゆる「正しい」試合展開を「構え合って攻め合う」ことと明記したことにある。この正しさはどういった視点から生まれてきているのだろうか。剣道の良さを「画一的」なものにしかねない怖さはあるものの、剣道にとって「構え合って攻め合う」の意義を説明できるものを考えていかねばならないように感じる。
なぜかというと、昔の先生方の試合をみると、打突前の攻防の緊迫感や攻め口の多彩さは大いに勉強になるものの、一度鍔競り合いになった後は簡単にはなれるようなことはなく、むしろ非常に近い間合いのまま試合が展開される状況が多くみられる。今のように間を切るようなことはない。
また、もう一つ考えなければならないのは、剣道の基本を伝える時にも、打突の仕方(例えば面の打ち方など)は詳細な説明がなされているものの、打突前の攻め口や心構えに対して、どのくらい指導がなされているのだろうか。これは、日本剣道形や剣道基本技稽古法にも言えることである。「構え合っての攻防」を重視すればこそ、打突前に対する具体的、詳細な説明とその重要性を伝える方法を今後より考えていかなければならないように思う。
②ここでも「姑息」という表現をし、剣道の「正しさ」に関して言及されている。
スポーツには明示的ルールと黙示的ルールがあるわけであるが、剣道の場合はこの黙示的なルールを遵守することを強く求められるケースが多い。そして、田中守が言うように、スポーツにおいては反則ギリギリのプレイが「上手さ」や高度なテクニックとして称賛される場合もあるが、剣道の場合は反則から遠ければ遠いほどよいプレイとして認識される。これは、ルールと運動形態のどちらが先にできているかにも起因するところではあるが、明示的ルールを増やしてしまうことで、「自らを律する」「正々堂々」といった感覚が薄れてしまわないか、師匠は特に心配をしていた。
③この点は非常に画期的であり、審判だけではなく試合者が本ルールの意図を認識し、審判と試合者の双方で試合を作り上げていこうとするものである。
剣道は審判が勝敗を決めるというよりも、試合者の中で勝敗は決しており、それを正しく判定するかどうかということが事実として存在している。極端な話、審判が「今のは一本ではない」と判断しても、打たれた側が「参った」という気持ちがあれば、本来それは一本とすべき事象なのである。競技化というのはここに難しさがある。
そして、試合者にもルールの意図の認識を求めるということを明記した時、審判員は試合者の意図をよく組み込んだ判定が求められるようになったということでもある。
今回のルールに関して師匠は次のようにいった。
「十分なる稽古を積み、積極的に試合に臨み、喜びや悔しさ、技術や心持ちへの課題を日々獲得している人でなければ、この度のルールに対する審判は務まらないのではないかな。剣道具もつけずに言葉だけで指導し、弟子の試合に対するアドバイスはするものの自分は試合に臨まない、それでは試合者の意図を汲み取った判定などできないでしょう」
肝に銘じて精進します。
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