武道の審査と評価(個人評価、絶対評価、相対評価)

居合道

武道の持つ特徴の一つに“段位制度”がある。

競技会に留まらず、生涯に渡って多くの武道家によって目標ともなっている制度である。

全日本剣道連盟では、「全日本剣道連盟(以下「全剣連」という。)定款に基づき」初段から八段までの段位が設けられている。ただし、目的に関して平成12年4月1日に施行された段階では、「剣道の奨励および、その向上に資する」と明記されている。

さて、段位の条件に関して、同規則第15条では、段位を初段から八段までとし、第17条第1号各号(p13)に規定する資格を有する受審者であって、次の各号の基準に該当する者に与えられる、としている。

順番にみていこう。

初段から三段は「基本」を大切にされている。

  初段は、基本を修習し、技兩良なる者

  二段は、基本を修得し、技兩良好なる者

  三段は、基本を修練し、技兩優なる者

四段からは「基本」に加えて「応用」が求められる。

  四段は、基本と応用を修熟し、技兩優良なる者

  五段は、基本と応用に練熟し、技兩秀なる者

そして、六段と七段には「精義」ということが求められる。

  六段は、精義に練達し、技兩優秀なる者

  七段は、精義に熟達し、技兩秀逸なる者

最後に最高段位である八段には、「奥義」が求められる。

  八段は、奥義に通暁し、成熟し、技兩円熟なる者

ということである。あくまで、初段から八段は技兩が求められているということである。そして、それぞれに対して修行年限が定められている。(実は一時、高齢者に対する年限の短縮が認められたが今はない。個人的にはあるべきだと思っている。)全日本剣道連盟の場合は、剣道、居合道、杖道のいずれも上記の基準が定められている。

 そして、剣道、居合道、杖道それぞれに「基本」「応用」「精義」「奥義」が求められているため、段位を得ようとする場合は、一つ一つを見直していく必要がある。しかも、剣道は特に自分が最高のパフォーマンスをしても、相手がいるということが合格を難しくしている。

ここからが本題

師匠が先日、居合道の審査員のための研修会を受けてきたということであり、我々に教えてくれたため、ここで少し書いておこうと思う。

◯居合道における技術の「基本」は、“抜付け” “切付け” “血振り” “納刀” である。

◯「応用」とは、“気剣体の一致”であるということ。(講習会では、“気”“剣”“体”それぞれにも詳細な説明がなされたらしい)

そして、居合道称号・段級位審査規則には、居合道段位審査の方法に対する実技審査には次のようなことが求められている。

 初段〜三段

  • 正しい着装と作法
  • 正確な抜付け、切付け
  • 正確な血振り、角度
  • 正確な納刀

四段〜五段

  • 心の落ち着き
  • 目付け
  • 気魄
  • 気剣体の一致

六段〜八段

  • 理合
  • 品位・風格

最後に質問を求められ、師匠は次のような質問をしたらしい。上記の条件に対して、特に六段から八段に関しては非常に難しいものがあるし、弟子への指導に心から心血を注いでくれる師匠は切実な気持ちであったとのことである。

師匠:「講師の先生方にお尋ねします。六段、七段、八段の審査員をつとめる中で、それぞれの段位において技術面において重要としている視点はどこですか。次の段位を求めている方に対してアドバイスをする上で是非参考にさせて頂きたい。」

師匠は次のような回答を期待したようである。「六段では○○、七段では△△、八段では□□といった視点です。」

審査員は次のように答えたという。

「4人が並んで審査を受けているため、どの人が上かどうかはわかります。」

帰ってきてから師匠が言った。

「段位審査もまるで競技会のようだ。段位はもともと師匠が弟子に対して、ある域に到達したら与えるもの。個人への評価であるはず。しかし、相対的な評価をしてしまえば、その域に達しているとしても合格しない人が出てきてしまう。修行には終わりなどない。昔と違って、今は仕事が忙しく、武道に取り組んでいる時間が極端にとれない。そうすると、ある域に到達し、次の段階に進むことがその人を高めることにつながる場合もあるのに、いつまでも足踏みをさせてしまう。そうしてしまえば、時代を追うごとに技は廃れてしまいかねないし、大きな変容をみせてしまうことにもなりかねない。自分の武道を進む上での指標として段位があってもよいのに、一緒に受けている人よりも上にならなければならない。これが行き過ぎると、審査でも他者よりうまく見せるためにはどうするか。ここに心が動いてしまう人も出てきてしまう。修行する側は自分自身と向き合って修行をしているのだから、必ずしもそうではないかもしれないが、審査員をつとめている側の人が受審者を相対的に評価していることを公言してよいのだろうか。」

加えて次のようにも言っていた。

「居合は人に見せるためのものではなく、技を磨き、精神性を高めていくものという原点があるはずなのに、先ほどの審査員の言葉を間に受けすぎてしまえば、審査員に見せることを目的とした居合が出てきてしまう。相対的な評価を審査でも行なっている人、そしてそうした審査で合格した人は次の世代も同じ感覚で伝えてしまう。つまり、居合道そのものの取り組み方や考え方に大きな影響を及ぼすこともまた審査であり、合格・不合格を握っている審査員の言葉であるということを痛感した。」

「剣道は相手とのやりとりがある。だからわかる。しかし、直接的に相手とのやりとりをしない居合道の審査で、それがあってよいのだろうか。。。」

とても残念そうに、淡々とお話をされた。

そして、結局最後は次の話。

「ただ、結局は自分が武道とどう向き合いたいのか、人間として自分をどう高めていきたいのか、どこを目指したいのか、そこだけの話だから。正解も不正解もない。人に見せる居合を本物と思いながら稽古し、段位を追い求める人間でいたいと思うのであればそれはそれでよいだろう。その人が求めたことなんだから。」

深く考えさせられる。この言葉は師匠の口癖である。その度我々弟子は「結局あなたはどんな生き方をしたいの」と問われ続けているのだ。

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