「事理一致」という言葉がある。
田中守という方の言葉を借りれば、現在の武道の世界においては、「事」(身体的・運動的な現象としての技法)と 「理」(その真理を表わす筋 ・法則性)の一元化 ・一体化のこととして使われている。
やみくもに身体を動かすことだけを鍛錬してしまうだけでは剣道・居合道・杖道はただの棒振りになってしまうし、理屈・理論だけを求める評論家という立場にのみなってしまえば、自分自身を一生を通じて高めていくことは到底できない。
しかし、この稽古にも段階はあると思う。ひたすらに身体を動かして鍛える時期、「理」のメーターを高くしながら存分な思考をもって技を高めていく時期、丁寧に自分の身体動作と向き合う時期、必死になって頭の中を真っ白にして強い相手に立ち向かっていく時期。これらの過程を通して、「事」と「理」は一致していくのだと思う。
師匠は1年の中で数回、こんなことを試す時がある。
月曜日と火曜日は「考える稽古」、水曜日と木曜日は「動く稽古」、金曜日と土曜日は「練る稽古」
具体的にどんな内容か。剣道の稽古の時を挙げてみるとわかりやすい。
「考える稽古」:いわゆる「基本稽古」の徹底である。その時に徹底して自己の身体と向き合う。例えば「足」といったように漠然としたものではなく、指一本、1mmの動きにまでこだわって考えながら実施する稽古である。
「動く稽古」:いわゆる「打ち込み」や「懸り稽古」など、自分の身体をいじめぬく稽古である。身体の細部など意識している暇など到底ない。しかし、この稽古の時はそれでよい。師匠は、「動く稽古は身体を徹底的に動かす。動かさないのは脳みそだけ」と言う。
「練る稽古」:いわゆる「地稽古」である。「考えて」「動いて」稽古してきたものを、上の段階に高めていく稽古である。「理」はわかった。体が動くようになり「事」ができるようになってきた。あとは、本当にそれが自分のものとなるように、他の人にはない自分だけの輝きを放てるように、ひたすらに練っていく稽古である。
この稽古を師匠が提案する時は、我々弟子の稽古の仕方に対して何らかの問題を感じた時である。「頭で武道をするようになった」とか、「身体を動かすきつい稽古を身体機能を高めるために行い始めた」と言って、次の週からこの稽古がはじまる。
基本的に師匠は、稽古の方法や進め方を特段指定することはない。それぞれの課題意識の中で稽古することを尊重してくれる。アドバイスをするときでさえ、今どんな方向性で稽古に臨んでいるのかを弟子に確認するほどである。そんな師匠が稽古内容を提案する時は、我々弟子からすれば「警告」と捉えざるを得ない。なぜなら、考え方と大雑把な稽古内容のみを示され、あとは弟子たちの心掛けに任せられるのだから。提案されたことへの恥ずかしさや申し訳なさ、何よりも自分自身への情けなさを向き合う稽古期間となる。
そして、そんな弟子のほんの少しの心の動きを察知する師匠に対して、尊敬と共に恐ろしささえも感じてしまう。
<文献>
・田中守(1984)近世剣術伝書にみる技術観の問題 ―「事理一致 」論を中心に―、武道学研究16-1
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