勇気を磨く

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居合道や杖道と剣道が大きく異なるところは、「相手の手筋が決まっていないということ」である。

形を用いた武術の稽古は、その術理を学び、その理を可能にするための技を磨いていくことにあると思う。心持ちは別に書くとして、技の探究、修得のために相手の出方が定められているものが形である。それに比べて、剣道については、その打突箇所は限定的(面・小手・胴・突きの4箇所のみ)ではあるけれども、そのうちのどこを打突するかは相手次第である。しかも、打突にいくつく過程も千変万化、どのように技を繰り出してくるかも相手次第である。そういった意味では、非常に有効な稽古法であると思う。

そうした中、自分の攻撃可能な間合いに入るということは相手の間合いに入るということでもある。ここに怖さが生じる。頭の中で繰り返される「打たれたくない」という心である。

剣道具を身にまとった竹刀による打ち込みは武術的な殺傷性という視点からみれば随分低い。(愚痴:だって、形稽古では木刀を用いることが多いし、反応が遅れて師匠から打たれてしまったことは数知れず、、、。正直、痛すぎて心が折れたことも何度もある。)

それでも「打たれたくない」という思いは試合経験を積めば積むほど出てくるものである。だからって遠くからどんどん技を出せばよいのか。守りを徹底的に固めて打たれないようにすればよいのか。そういったものでもない。

剣道範士八段の小林英雄という方は次のように言っている。

「相手を打ち切るためには、打たれる怖さに打ち勝って捨て身にならなければなりません。それには”覚悟”が必要になります。」(剣道時代編集部編、2016、p.103)

ここでいう”覚悟”は根拠のある”覚悟”なのだと思うし、”覚悟”が必要になるほど間合いに入らなければならないことを言われているようにも聞こえる。

構える勇気、そのまま間合いに入る勇気、そして打突をする勇気

古歌にありますよね、

「切り結ぶ 太刀の下こそ 地獄なれ たんだ踏み込め 神妙の剣」

「切り結ぶ 太刀の下こそ 地獄なれ それ踏み出せば あとは極楽」

何をもって”極楽”というかはわからないけれど、居合道と杖道と比べて剣道だからこそ学べることの一つは「勇気」な気がする。ここで学んだ「勇気」が居合道や杖道でも生かせるようになると自分のレベルが上がっていくようにも思う。

怖い怖い。打たれたくない。でも大丈夫。今は平和な時代。打たれても次がある。「勇気」は出すものではなくて、磨いていくもの。

明日からまたがんばろう。

【文献】

剣道時代編集部編(2016)『剣道極意授けます』体育とスポーツ出版社、pp87-103

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